市庁舎移転

1967(昭和42)年、旧倉敷、児島、玉島の3市合併により倉敷市の人口は、15万人から40万人へと、約3倍にふくれあがりました。この建物の約1km南に新市庁舎が移転することになったのは1980(昭和55)年。行政需要の拡大や業務の多様化を考えれば、市庁舎拡大は止むを得ませんでした。結果として本館の市庁舎としての生命は、丹下の庁舎建築の中で最も短命となりました。


1960年の市庁舎(現 倉敷市立美術館)南面
美術館としての再生

郷土出身の日本画家・池田遙邨による倉敷市への作品寄贈がきっかけとなり、1983(昭和58)年、この建物は美術館として再生されました。天井も高く、ほとんど障害なく拡がる床スペースは、美術館への転用に向いていました。改築の設計を担当した浦辺鎮太郎は1909(明治42)年生まれで倉敷市出身の建築家。1963(昭和38)年には代表作のひとつ倉敷国際ホテルが竣工、1972(昭和47)年の倉敷市民会館では毎日芸術賞を受賞しました。浦辺は、可能な限り丹下建築の特徴を残しながら美術館としての機能をもたせることに努めました。
美術館への転用が決まり、耐震構造の調査を依頼された坪井善勝は、丹下のこの建物について次のように述べています。「構造的に完璧。まったく問題はなかった。何よりあの建物は、形式が単純明快。RC(鉄筋コンクリ−ト造り)の模範構造とでもいえるもので、学生の演習テキストにしたいくらいだ。構造的に複雑な要素がないから耐震診断も楽だった。あのように後味の良い建築はめったにあるものではない。」こうして旧市庁舎は「現代の校倉造り」と呼ばれた外観をほとんど損なうことなく、美術館として再出発しました。


1960年の市庁舎(現 倉敷市立美術館)3F市長室
(c)MURASAWA Fumio

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