若き日の遙邨


「災禍の跡」1924(大正13)年
(クリックして大きな画像が見られます)
その後、同郷の小野竹喬との出会いなどにより、次第に日本画の世界に魅力を感じるようになり、1919(大正8)年には京都に出て、竹内栖鳳の画塾・竹杖会で本格的な日本画の修行に入ります。そして、この年の第1回帝展で「南郷の八月」が入選して日本画壇にデビューします。
大正時代後期の遙邨は、ムンクやゴヤなどの作品や、ドストエフスキーやゴーリキーの文学に惹かれ、その影響のなかで、人間の哀しみや人生のはかなさに深く感応しつつ、新しい情趣に満ちた日本画の創造を試みました。1923(大正12)年に起きた関東大震災を描いた作品「災禍の跡」は、この時代の代表作です。しかし、この作品は翌年の第5回帝展に出品したものの、落選となってしまいました。


「昭和東海道五十三次」1931(昭和6)年
(クリックして大きな画像が見られます)
昭和に入り、遙邨の画風はさらに変わります。1928(昭和3)年、第9回帝展で「雪の大阪」が特選となり、1930(昭和5)年には第11回帝展で「烏城」が再び特選となります。これらの作品の中には、当時の風俗とそこに生きる人間をテーマにしたものも多く、大和絵の新解釈にたった清新な作風によって、遙邨は再び画壇に認められました。また、この時期、江戸の浮世絵師・歌川広重に傾倒し、自らも3度にわたり東海道を徒歩で写生旅行しています。その集大成となったのが、1931(昭和6)年に完成した「昭和東海道五十三次」です。
池田遙邨「昭和東海道五十三次」をすべてみる

*掲載作品はすべて倉敷市立美術館所蔵

ホーム > コレクション > 池田遙邨の世界 > 若き日の遙邨

このホームページに掲載されているすべての情報は、倉敷市立美術館が著作権を有しています。
また、写真資料などについては、それぞれ提供元の協力により掲載されています。無断で転用・引用することを禁じます。






はじめに

若き日の遙邨

戦後の遙邨

晩年の遙邨

年譜

池田遙邨収蔵作品

昭和東海道五十三次