綿花からはじまる倉敷市の歴史を学ぼう!

はじまりは「一輪(いちりん)の綿花」

 年間350万人以上の観光客が訪れる倉敷美観地区の美しいまちなみ。今や海外のファンも多い児島産のジーンズ。ノスタルジックな港町玉島の情景(じょうけい)とお茶文化。これらはすべて、一輪の綿花からはじまりました。
 倉敷市は、かつて「児島」「玉島(乙島・柏島など)」「連島」などの島々と浅海(あさうみ)で、「吉備(きび)の穴海(あなうみ)」と呼ばれていました。江戸時代に備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)と岡山藩による干拓(かんたく)が行われ、これらの島々が陸続きになると、その一帯に綿花が植えられました。干拓地(かんたくち)は、はじめの数年は土に塩分を含み米作りに適さないので、砂質の土で塩分に強い綿花が植えられたのです。

綿花からはじまる『まちと産業』の歴史

1642年 備中松山藩主(びっちゅうまつやまはんしゅ)・水谷(みずのや)氏が
本格的に玉島の干拓事業に着手
同年 倉敷が「天領(てんりょう)」になる
1700年代 玉島港の備中綿(びっちゅうわた)の出荷が盛んになり、瀬戸内海屈指の
商港(しょうこう)となる
1881年 玉島紡績(ぼうせき)所(玉島)、下村紡績所(児島)が設立
1888年 倉敷紡績所(現クラボウ)が倉敷代官跡地に設立
1920年代 児島で学生服の生産が始まる
1930年 日本初の私立西洋美術館である大原美術館が設立
1945年 第2次世界大戦 終戦
1963年 児島の学生服生産量が最多の1,006万着を記録
1964年 東京オリンピック開催
1965年 児島で初の国産ジーンズが発売
1967年 倉敷・児島・玉島の旧3市が合併
1974年 旧倉敷紡績所の工場跡に倉敷アイビースクエアが開業
1979年 倉敷川周辺が国の「重要伝統的建造物群保存地区(じゅうようでんとうてき
けんぞうぶつぐんほぞんちく)」に選定される
1988年 瀬戸大橋が開通
2000年代〜 高品質なプレミアムジーンズが人気となる
2017年 倉敷・児島・玉島の旧3市が合併50周年を迎える
綿花からはじまる『まちと産業』の歴史
  • 倉敷
  • 児 島
  • 玉島

「天領(てんりょう)」倉敷のまちなみ形成と
繊維(せんい)産業

 倉敷は、1642年に江戸幕府(えどばくふ)が直接治める「天領」となって以降、政治の中心地であるとともに、備中(びっちゅう)南部の物資を運ぶ中継地として栄えました。倉敷川は運河として使われ、周辺は商人たちの立派な屋敷や蔵が立ち並び、綿やイ草イ草(いぐさ)などを扱う問屋や仲買人(なかがいにん)で賑(にぎ)わいました。
 明治時代になり、日本初の民間紡績(ぼうせき)所である「玉島紡績所」(玉島)、「下村紡績所」(児島)に続き、1888年に英国式の最新鋭の紡績設備を備えた「倉敷紡績所」(現クラボウ)が倉敷代官所跡に創設されると、繊維産業は地域の発展に大きく関わっていきます。特に、倉敷紡績所が国内有数の紡績会社に成長すると、第2代社長であった大原孫三郎(おおはらまごさぶろう)氏は、日本初の私立西洋美術館「大原美術館」を設立するなど、地域の文化・社会・福祉事業に取り組みました。  また、長男の大原総一郎(そういちろう)氏によって蔵を改装した「倉敷民藝(みんげい)館」や「倉敷考古(こうこ)館」が設立されると、その周辺一帯では伝統的な建物を保存・再生する取組が進んでいきます。
 1974年には、旧倉敷紡績所の本社工場跡を再生し、ホテルなどの複合文化施設に改修した「倉敷アイビースクエア」が開業。1979年に倉敷川周辺が国の「重要伝統的建造物群保存地区(じゅうようでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)」に選定されると、「倉敷美観地区」として発展を続け、国内外から多くの観光客が訪れる全国屈指の観光地となりました。

倉敷紡績所と倉敷のまちなみ

倉敷紡績所と倉敷のまちなみ

倉敷美観地区

倉敷美観地区

日本一の繊維のまち

 備中地方の綿づくりは、栽培だけでなく、綿製品をつくる仕事へと広がっていきます。特に児島は、農作地が少なかったので、綿を糸にし、糸を撚(よ)って太い糸にし、それを織った製品をつくる仕事が盛んになっていきます。由加山へのお参りのお土産として人気だった真田紐(さなだひも)や小倉織(こくらおり)のほか、足袋(たび)や畳縁(たたみべり)などを生産する織物産地へと発展していきます。
 伝統産業として育まれた織りや縫製(ほうせい)の技術は、学生服・作業服など、その後多彩な衣料品製造へと展開していきます。大正時代以降は服装が洋風化し、学生服が急速に市場に浸透(しんとう)。昭和初期には全国の学生服の9割が児島でつくられるまでになりました。
 戦後は、縫製技術を生かして1965年に初の国産ジーンズを発売。2000年代に入ると、高い縫製・加工技術による高品質なプレミアムジーンズが愛好家の間で人気となり、今では「国産ジーンズ発祥(はっしょう)の地」として、海外からも多くの観光客が児島へ訪れるようになりました。
 このように、児島は、江戸時代の綿花栽培にはじまる伝統的な繊維産業に新たな技術を織り合わせながら発展しつづけ、「日本一の繊維のまち」として繊維製品出荷額国内第1位を誇る倉敷市の原動力となりました。

多くの人々が働く縫製工場

多くの人々が働く縫製工場

真田紐・畳縁・作業服

真田紐・畳縁・作業服

備中綿(びっちゅうわた)で栄えた港町

 玉島は、綿花栽培とともに、綿の取引地として栄えました。江戸時代、備中松山藩主・備中松山藩主 (びっちゅうまつやまはんしゅ)・水谷(みずのや)氏の干拓事業により、新田開発と藩の外港である玉島港が整備されると、周辺で栽培される「備中綿」の積み出し港として玉島は発展していきます。
 日照時間などの自然条件が綿花栽培に適していたことや、玉島港や下津井港に肥料となるニシン粕(かす)を積んだ多くの北前船等が出入りしていたこと、さらには稲作より収益が高かったことから、玉島周辺の村々では綿花が盛んに栽培されるようになりました。
 1700年代には、玉島港における繰綿(くりわた)(種を取り除いただけの綿)の出荷が最盛期を迎え、200を超える土蔵(どぞう)が立ち並ぶなど、瀬戸内海屈指(くっし)の商港(しょうこう)となりました。
 また、そのような商港の発展に伴い、港町玉島には茶文化が花開きました。玉島商人の間では、商談(しょうだん)や接待(せったい)のために茶の湯がたしなまれ、最盛期には約400もの茶室があったそうです。
 今も玉島では茶会が頻繁(ひんぱん)に催(もよお)され、お茶関連のお店がいくつもあるなど、当時の茶文化が地域に深く根付いています。

羽黒山から眺める玉島新町

羽黒山から眺める玉島新町

円通寺

円通寺